福島に住む人の声をタップにのせて届けたい。プロタップダンサー 中山 貴踏
東北の中でも有数の商業都市であり、「東北のウィーン」や「音楽都市 “楽都” 」と呼ばれるほど音楽活動が活発な街が福島県の郡山市。今ここで “福島TAP” というタップダンスの新たなカルチャーが生まれようとしています。
その中心人物がプロタップダンサー 中山 貴踏さん。そもそも中山さんとの出会いはSNSで中山さんから突然のメッセージをいただいたことからはじまり、近々開催するという公演にお邪魔することに。
タップダンスをはじめて見る筆者にとって、その公演はあまりにも衝撃的だったのを鮮明に覚えています。なぜなら、タップダンスと言えば軽快に音を鳴らして踊る愉快な印象ですが、中山さんのタップダンスはそんなイメージとは真逆で見ているこっちが手に汗握るほど激しかった。
まるで共演者と言葉を交わすかのように、時には競い合い、時には楽しみを分かち合う、そんないい意味での裏切りが中山さんに興味を抱いたのがきっかけでした。
中山 貴踏
福島県郡山市出身。2006年、青山円形劇場6DAYS公演「Tappers Riot」をきっかけに熊谷 和徳主宰 KAZ TOP COMPANY “Tappers Riot” のオリジナルメンバーとして全国各地での劇場公演、LIVE、ワークショップを行う。2013年に地元福島へ拠点を移し、舞台公演、LIVE、ワークショップを行う。
サッカー少年が高校を1年で中退し、ダンスにのめり込む
−− 今日はよろしくお願いします。早速ですけど、いつからタップダンスをはじめたんですか?
よろしくお願いします。最初はハウス系のダンスをしていて、かれこれ20年くらい。15歳からダンスをはじめたんですけど、友達がやっている姿をみてカッコいいとおもったのがきっかけですね。当時、ダンス甲子園とかが流行っていた時期でした。
−− 勝手な印象なんですけど、ダンサーとかって自分を表現するっていうクリエイティブな人たちじゃないですか。目立ちたがり屋だったんですか?
いや、全然! 逆にだめなんですよ(笑)小さい頃も友達と遊ぶのが嫌いでアクティブなほうではなかったです。
−− え、意外ですね。じゃあ、音楽とかは好きだったんですか?
そうでもなかったんですよ、実はダンスに出会うまではずっとサッカーをやっていてジェフ市原っていうクラブチームの練習に参加するくらい本気でサッカー選手を目指してましたね。高校も県内の聖光学院というところにサッカー推薦で入学しました。
−− ダンスをはじめて、サッカーはどうしたんですか?
ダンスとの出会いが衝撃すぎてサッカーは辞めました(笑)
−− ええ!(笑)これまでやってきたのに完全にシフトして何も思わなかったですか? 例えば、これまで積み上げてきた経験が……とか。
何も思わなかったですね。それくらいダンスとの出会いは衝撃的でした。
−− なにがそこまで良かったんですか?
んー、やっぱり個人で取り組めるところですかね。僕、チームでなにかするっていうのが苦手なんですよ。サッカーの時もキーパーでしたし。
−− もしかして、集団の飲み会とか苦手な人ですか?
そうですね(笑)
−− 僕もです(笑)ちなみに、最初からプロを目指してたんですか?
いえ、全く。ただただうまくなりたいっていう思いでやってました。昔は開成山公園にある開拓の像とか総合体育館に先輩とか仲間もいて、ラジカセひとつ持ってそのステップを見よう見まねでやってた。当時はダンスブームで人もいっぱいいましたね、ちょっと怖い先輩も(笑)
−− 地元あるあるですね(笑)学校終わりとかに練習してたんですか?
いや……。朝8時くらいに学校に行って、10時くらいに帰って練習してました(笑)
−− めっちゃサボってる!
そうですね(笑)その頃ってもう、学校で目指すものがなかった。サッカーも辞めたので。なので、高校一年で一回休学したんですけど、結局その後、退学通知が届いてやめたんですよ。せっかくサッカー推薦できたのに貢献もしてないので当たり前ですけどね。
−− その後はどうしてたんですか?
その後は働きながらダンスばかりしていて、お金を稼いで東京を行き来してましたね。
−− 当時はどんなお仕事してたんですか?
調理の仕事してました。週6でピザを作ってましたよ(笑)だいたい21時〜2時まで仕事して、それ以外は練習って感じでしたね。
−− けっこうハードですね……。東京に行き来したのはなぜですか?
やっぱり福島では得られない情報がほしかった。当時、美竹公園っていうところが「ダンサーのメッカ」として有名でよくそこに顔を出してました。
−− なにかツテとかあったんですか?
なんもなかったです(笑)
−− すごい、急に来てなんかいわれないんですか?
いや特にないですね。「なにしてるの? 一緒に踊ろうよ」みたいな感じで、すんなり輪に入れました。
−− けっこうカジュアルにはいれるんですね、東京で衝撃とか受けました?
やっぱかっこよかったですね。東京のスタイルというか生活感というか、ファッション的なとこで言えばドレッドとか。いけてるなって感じでした。
−− 当時の写真とかあります?
これです。
−− めっちゃ影響受けてる(笑)ドレッドじゃないですか。
そうなんですよ(笑)今は一周してボウズに落ち着いたんですけどね。
−− でも、こういうのって福島にはなかったんですか?
今思うと福島ならではの良さはありますね。先輩との繋がりとかダンスの友達が増えやすいとか。東京の良さはチームでは動いてるけど、個人でしっかり意識をもってやってるところ。それがかっこよかった。
タップダンスに出会い、映画『タップ』を繰り返し見て練習する毎日
−− どれくらい往復生活を続けたんですか?
5年くらいですね。タップダンスに出会って本格的に東京に行くことになります。当時、いきなりダンスが踊れなくなったんですよ。スランプみたいな。ダンスは気持ちが重要なんですけど、スランプでどんどん落ち込んでく。周りからも踊った方がいいんじゃないかって言われていて、それがきっかけでタップダンスをはじめました。
−− 知り合いにタップダンスをやってる人いたんですか?
いなかったですね、タップシューズも売ってなくてローファーを買ってやってました(笑)もちろん、教えてくれるところもないし、独学で練習してましたね。グレゴリー・ハインズが出てる『タップ』っていう映画を繰り返し見てステップの練習したり。
あと郡山駅前にDOOSって小さいクラブがあったんですけど、平日500円で入れてドリンク1杯ついてくるんですよ。木曜だとジャズヒップホップとか流れてたので、一人で行って練習させてもらってました。
そうして練習を重ねていくと、やっぱ東京いきたいなって。
それで当時働いていたお店をバックレます(笑)
−− ええっ!? どういうことですか(笑)
早くいきたかったんです。普通に退職を伝えたら1ヶ月後とかになると思うんですけど、それだと時間がかかりすぎた。だから、そのお店は給料が手渡しだったので、もらってすぐ「トイレにいってきます」って言って、そのまま弟の住んでいる埼玉に直行しました(笑)
−− 心配しなかったですか? トイレに行ったら急にいないとか(笑)
してましたね……。その後、さすがに申し訳ないので直筆で手紙書きましたけど。
−− そうですよね、それがないとさすがに(笑)
電話はちょっとできなくて、2枚に分けてその時の想いを綴りました。「僕は必ずこれでがんばります」みたいな。ちょっとドラマチックに「裏口の扉が重かったです」とか(笑)
−− 埼玉に行ってからは練習とかどうしてたんですか?
森でした(笑)
−− え? 森?
浦和だったんですけど、近所の体育館の裏に生い茂っているところがあって22時過ぎになると板を持って練習しに森に通ってました。森だから騒音も大丈夫だし、人に見られることもないですし。
−− どうやって板を持っていくんですか?
普通に手で持っていきましたよ。
−− それ見られてるじゃないですか(笑)
見られてます(笑)
−− 足繁く森に通ってたんですね……。
そうですね、それ以外だとルームっていう渋谷のクラブが板張りだったからよく通ってましたね。ここでタップダンサーに出会えるはずだと思って週3〜4くらい通ったら出会えて、その人から技を教えてもらったり。
それから、たまたま見つけたフライヤーにタップダンサーがいて、世田谷のパブリックシアターで見たタップダンスの公演が衝撃的でした。その人が最初に慣らした音で「やべえ」みたいな。2つ隣の席に黒人のお母さんがいたんですけど、気づいたら一緒にリズムにのってました(笑)
そこで「この人と絶対一緒にやりたい!」と思ったんですけど、それが後に僕の師匠となる熊谷 和徳さんでした。そのあとは、熊谷さんのDVDを見て森に行くみたいな、往復生活をしてました。
そしたら知り合いから熊谷さんのワークショップがあるってことを教えてもらって。その時タップシューズが壊れてて修理に出しているのにもかかわらず手ぶらで参加しました。タップダンスなのに(笑)
ワークショップは案の定、シューズがないので見てたんですけど最後のジャムっていう即興を披露するタイミングで「なにやってるの? いいからやりなよ」って熊谷さんに言われてボロボロの板の上で、しかも裸足やることになったんです。
当時は「田舎から出て来ても通用する、やってやろう」っていう野望を抱いていたし、ダンスをやってたのでリズム感には自信があったんですよ。なので裸足でやってやりました。
−− そこで見せつけて弟子になろうとかって思ってたんですか?
いや、全く(笑)でも、そのあと青山円形劇場で「Tappers Riot」という公演をやるということで、声をかけてもらって、そこから本格的に舞台の練習を始めていくんです。
でも、習ったこともないし独学だったので練習をはじめたけど、振り付けとかが全くできなかった。基本ができていないから音の慣らし方、体の使い方、ステップの種類とか。
−− 森でやってた時と違うんですか?
全然違いましたね。この時は一番苦労しました。「やってけんのかな?」って思ったけど、やると決めたので必死に食らいついていきました。ストリートダンスだと、やろうって感覚でいけるけど、タップだとできない。ここで初めてタップにはしっかり基礎があることに気づきました。
−− その時はやっぱり悔しかったですか?
そうですね、ただできる雰囲気だけは出してました(笑)あんまり人に聞ける性格ではなかったんで、横目で見ながら動きを覚えてきましたね。聞けば早いのに、当時はプライドがあってできなかった。みんな4エイトとか音楽的に踊ってたけど、僕は感覚でやってたからできなかった。なので「あの形がきたら、こう回るんだ」みたいな覚え方でやってました。
−− ある意味、暗記みたいな感じですね(笑)
そうですね(笑)今思うと面白いんですけどね。一番下手くそだったので。
その後、熊谷さんがCOMPANYを作ることになって再び招集されて、全国を飛び回って公演を繰り返すことになりました。当時のCOMPANY稽古が厳しかった。今思い出すだけで怖いですね(笑)
東北出身ということもあって、同じ東北出身のタップダンサー村田 正樹さんと一緒に熊谷さんに教えてもらったんですけど、さっきのように僕は下手くそだったのでめちゃくちゃ怒られながら教わってました。
ただ、怖かった反面、自由に表現はさせてもらえたからすごい良かったです。これがタップダンスの基礎を学ぶきっかけにもなって師匠や先輩の技を盗でいきました。
それくらいから森を卒業して、さいたま新都心にある大通りで練習するようになりました。
−− ついに森を卒業! 急になぜですか?
人前でちゃんと踊れないとやってけないだろうって。森からストリートに移っていきましたね(笑)ただ、罵声とかすごかったですね。「うるせえ」みたいな。でも、それも受け止めて集中できるか、いろんな状況を自分で作って楽しんでたのかもしれませんね。
いろんな人がいて、印象的なのがホームレスの人ですね。見てて突然「お前、ミスったろ」って言われて。たしかに僕はミスったんですよね。だから「なんでわかったんですか?」って聞いたら「いや、テキトーに言っただけだ。いちいちそんなのに反応してんじゃねえ」みたいに言われたり、街に出てったら全く環境が違いました。
−− 森から街にいくのって勇気いりませんか?
めちゃくちゃいりますよ。怖いし。でも、一歩を踏み出さないと始まらないんですよね。特に街だと一歩踏み出してから躊躇するのも違うじゃないですか。だから一歩踏み出したら、もうやめられないのが逆に良かったと思います。
わざと人通りの多い19時とかにやってましたね。近くのホームセンターで板買って普段は隠しておくんですけど、それが見つかって撤去されて都度買い直したりとか(笑)
脚注
ここまで練習を重ねていても、タップ界ではバカにされることも多かったと言います。だからこそ、集団練習においても馴れ合いではなく、師匠を超えるということだけを考えてやってきた、他のメンバーは全員ライバル、ひとりひとり潰していかなくちゃいけないって感覚だった、と当時を思い返していました。8年ほど「Tappers Riot」に所属し、その後福島に帰郷。
再び福島へ。ゼロからのスタート。
−− なにがきっかけで福島に戻ったんですか?
2011年の地震ですね。当時から度々、郡山には帰ってたんですけど、福島と東京の感覚の差、海外にいるような感覚に気持ち悪さを感じてたんですよね。いろんな情報が飛び交ってるけど信用できないから自分の目で確めたくて。それで福島に戻ることを決意して、福島でゼロからタップダンスをスタートしました。
この時にタップダンスの原点に帰るってことを考えていて。なぜかというとタップダンスの歴史は、黒人の黒人奴隷制度というのがきっかけで生まれた音楽なんです。当時は黒人が歌うことや踊ることも禁止されていて、コミュニケーションが禁止されていた。だから足踏み(タップ)で音を出していたです。きっと当時の黒人のように、やり場のない気持ちって福島の人はもちろん、人の中には同じ気持ちがある。それってみんなどうしているんだろうなって。
そういう背景があって生まれたのがタップダンスだからこそ、タップダンスを通じて環境やシステムと戦って行くひとつの希望になるんじゃないかって考えているんです。
でも、帰って来た当初は悩みました。タップダンスをすることで震災前に戻るっていうなら分かるんですけど、ならない。「なんのためにやるんだろう?」みたいな。当時は訳がわからなかった。情報ばっかりが錯綜していて「原発が……」とか浜通り、中通り、会津で国の対応も違えば地域の人の発言も違うし、「くそめんどくせえなここ」って(笑)
だけど僕が一歩踏み出す(タップ)ことが福島の人にとっても一歩になるんじゃないかって。
生きてて嫌なこともあるし楽しいこともある。でも、立ち止まっていられないですよね。一歩を踏み出す連続はタップダンスも同じ。日々の尊い一歩(タップ)は起こっている。
タップダンスは“言葉”って教えられるんです。歌を歌うようにコミュニケーションができるダンス。その声は日々の歩く一歩一歩、人によっては悲しい気持ち「タン……タン……タン」楽しい気持ち「タン、タタン、タン、タタン」ムカつく気持ち「ドン、ドン、ドン」。その言葉、福島の言葉ひとつひとつをタップダンスで外に出していこうって思えたんです。
−− 今の福島を表現するひとつの形ってことですか?
そうですね、最近は音楽性の強いタップダンスが主流なんですが、僕はそういったシンプルな言葉をタップダンスにのせる新たなスタイル「福島TAP」としてシーンに投げかけたい。
そして、よく大人たちが “ダンスなんかじゃ食ってけない” って若い子たちの夢を摘むようなことを言ってますけど、マジでやめてほしい。それは大人が作り上げた勝手なイメージでダンスは仕事になる。それが才能あるダンサーの将来を潰すし、県外に出て行かざる追えない原因のひとつになっているんです。
そうした環境やシステムをぶっ壊すためにも将来的にはタップダンスのエンターテイメント集団をつくってタップダンスを広めていきたいですね。
福島初公演「LIFE GOES ON」
今回お話を伺った中山さんが会津若松で公演する「LIFE GOES ON」。公演にあたり、公募によって集まった一般出演者も交えた総勢30名によるタップダンスを是非ご覧ください。
会場:会津若松市文化センター
開催日:2017年3月5日
会場 / 開演:13:30 / 14:00
チケット:一般2,000円、大学生以下1,000円
お問い合わせ先:0242−27−0900(會津風雅堂)