ガイドさんが勧める会津若松城(鶴ヶ城)の見どころと四季折々の季節イベントを紹介
福島県の観光地、会津若松市のシンボル「会津若松城(鶴ヶ城)」春には桜が満開のお花見スポットとして、冬には伝統工芸品の“絵ろうそく”が飾られた幻想的な光景など、歴史的な建築物としてだけでなく四季折々の顔を持つ人気スポットの一つです。
そして、日本の歴史のターニングポイントにもなった戊辰戦争では新選組や白虎隊のエピソードなど、激動の時代の中心にあった場所でもあります。周辺を歩けば、その名残を感じることも多く、“会津”という地を知るうえでは外せないスポットと言っても過言ではありません。
会津若松城(鶴ヶ城)の歴史
鶴ヶ城の歴史は、1384年に建築された東黒川館がはじまりとされています。当時は天守閣がない館のようなつくりで、豊臣秀吉の命令で蒲生氏郷が会津を治めたことにより七層の天守閣が築かれました。名前もそれまでは黒川城と呼ばれていましたが、天守閣が造られたタイミングで『鶴ヶ城』と改められました。
今は、鶴ヶ城や会津若松城とも呼ばれますが、福島の人は鶴ヶ城と呼ぶ方が多いのではないでしょうか。
ちなみに、以下はこれまで会津を統治していた歴代の藩主ですが、これらの名前からも古くから鶴ヶ城は周辺の領地争いにおいて要所であったことがよくわかりますね!
【会津歴代領主・藩主】
1189年 → 1589年 佐原氏・葦名氏
1589年 → 1590年 伊達氏
1590年 → 1598年 蒲生氏
1598年 → 1601年 上杉氏
1601年 → 1627年 蒲生氏
1627年 → 1643年 加藤氏
1643年 → 1868年 保科氏・松平氏
1611年にマグニチュード6.9、震度6以上の大地震が発生。多数の死者がでる大惨事で石垣や天守閣も大きく傾いてしまったものの倒壊することはなく、その後の修復によって現在の姿の鶴ヶ城になりました。
最も歴史に名を残すことになった戊辰戦争では激戦の舞台に。今の白河市から二本松市へと進み会津若松へと進軍してきた新政府軍を相手に1ヶ月もの籠城戦を耐えぬいたことで“奥州一の名城”として讃えられることになりました。
しかし、圧倒的な戦力差によって抵抗むなしく最後には降伏。この時、本来は予備戦力であった白虎隊も奮闘しましたが、城下町の火事を城が燃えていると見誤り、飯盛山で自害。後世に残る悲劇のエピソードが生まれました。
こちらは戊辰戦争後の鶴ヶ城。激しい損傷が戦争の凄まじさを物語っています……。
また、京都の池田屋事件で有名となった新選組の三番隊隊長だった斎藤一も会津藩の指揮下に入り、会津藩が降伏後も最後まで新政府軍相手に抵抗を続けたとされています。
新選組に関しては、死闘を繰り広げたとされる“母成峠の戦い”で敗れた隊員をともらう石碑のある「如来堂」、斎藤一の墓のある「阿弥陀寺・御三階」、近藤勇の墓がある「天寧寺」など、新選組と会津の深い関わりが伺える場所がいくつもあるので、新選組ファンの聖地と言ってもいいでしょう。
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